自分の人生は全て自分で責任を取るという覚悟と無限の未来!
昨夜たかたんと電話で話してクリアにできた。
結局「自分の人生は全て自分で責任を取るという覚悟」ということだ。
たかたんのような私の生い立ちからの歴史を知っていて、心理状態や感情を理解でき過ぎてしまうひとは、逆に長時間一緒に傍らで生きることが難しいのだ。わたしに寄り添えてしまう感受性を持っているから、私の苦しみを自分のことのように感じすぎて、疲れてしまうんだ。
他人は私の期待に応えるために生きているのではない。
そしてわたしも他人の期待に応えるために生きているのではない。
まさにゲシュタルトの言葉だ。
距離を置きながらの得難い親友にはなれるかもしれないが、少なくとも現時点ではパートナーとは違う。わたしは依存して、自己決定を出来なくなり、自分の人生に自分で責任をとることが出来なくなる。かつて、そうなっていた。そのくせ感謝をなおざりにした。
自己決定を繰り返し、自分の人生に自分で全責任を取ることができる人間にならないと、パートナーに限らず自分自身を含む誰とも、何とも(事象や物質さえ含む)、良い関係を築けない。
Oさんのことは、どちらが悪いとか良いとかという言葉では語るのはやめよう。
山の例えは良い発見だった。
わたしは自分が不安過ぎて寂しすぎて相手を求めるあまり、すそ野の広いところまで拾いすぎた。
どちらが上とか下とかではなく、みんなそれぞれ標高の違う。
居る山自体が違うこともある。
今回の私のケースは、寂しさや不安からパートナーを求めるということは、相手の顔色を窺って生きるということだ。そして、相手を自分の都合よくコントロールしたいということだ。
それは独立した人間とは言えないし、自分も相手も尊重していない。双方幸せになれない。少なくともわたしはそう考えるように変わった。
5年前癌になり仕事を失い父を亡くし治療の中でうつ病のどん底にいた頃の記録。
それは非常によい文章の落とし込みの経験ではあったが、人は変化するもので、あれは私の『過去の抜け殻』に過ぎない。
そこにもう私は居ない。ここにいる。
東京の家は生まれ育った愛着のあるものだが、人は最後には、必ずすべてに別れをつげる。物とも、人とも、すべて別れる。
地縛霊のようにそこに縛られるのは自分のために良くない。先へ進めない。先延ばしは恐怖からくるもので、自己肯定感(イコールノット自信)の無さからくるものだ。
そこにいてもわたしは先へ進めない。
一時期あの場所で思い出と心中するのも良いと思ったが、わたしは先へ進みたいと、今は思っている。
「人は助けてくれない」ことは知っていたが、言葉のとらえる角度が間違っていた。
「自分しか自分を助けられないのが当たり前」で、そのうえでお互い助け合えたらそれは素晴らしいことだ。でも出来なくてもそれは仕方のないことだ、というとらえ方が今のわたしの考え方になった。
虐待されてきたから、障害者だから、癌になったから、うつ病でつらいから…は事実であり、悲しいことであることも自分にとって真実だ。特に毒親問題は人生全てに影響するスタート地点でのハンディキャップであることは事実だ。
しかしそれを利用して相手をコントロールしようとするのは違う。
Oさんを通して見えたことだ。
「俺が悪いのか!?」→俺は悪くない→お前が悪い
「俺が可哀想」→お前が俺を可哀そうにしてるんだ→お前は俺のご機嫌を取れ
これが見えた。
良い悪いのではなく、私たちは違う人間だと言うことで、わたしは自分を抑圧してまで、他人のご機嫌をとるのは嫌だ。だれも幸せにならないし、100パー破たんする。そんなの愛じゃない。
鬱は甘えではない。
癌は甘えではない。
障害は甘えではない。
虐待は甘えではない。
特に幼少期は無力でわたしは確かに被害者だった部分はあるかもしれないが、しかし、それらに甘えること、それらを利用して相手をコントロールしようとすることはダメだ。今度は自分が加害者になってしまう。何より自分がもったいない。
恨んでも過去の事実は変わらない。そこにとどまるのは地縛霊だ。
わたしはちょっと人よりハンディがある、でもだから何?ということだ。
別に可哀そうじゃない。偉くもないし、劣ってもいない。
生きてるし。生きていることで幸せはある意味完成していると感じるし、問題ない。
ただの過去の事実だ。
過去と他人は変えられない。わたしが変えられるのは、自分と未来だけだ。
自分と未来は自分で変えられる。
わたしの未来は無限に広がっている。
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感覚が逃げないうちに、なるべく正確に今の状態を文章に記録した。
さあ、今日も頑張って自分の仕事をする!
起きた瞬間のドスン発作は続いてるけど、1ミクロンでも改善するよう、
とりあえず動く(←ここ重要)。
自分と未来は自分で変えられるからね。