虐待親への慈悲 奴は自分の地獄の中にいる

自分の家が当たり前と思っていた。他の家庭と比べる機会は意外とないものだし、そこで育つとそれが当たり前になり洗脳状態になる。

 

ただ、数人気が付いたらしい親戚が居て、子供のころ「一刻も早く久(母)とは離れろ、家を出ろ!」と別室に呼ばれて言われたことがある。

他にも学校の先生に「お前がどうしてそういう風なのか、すぐにわかった。あの母親のせいだ」と言われたこともあった。でも意味が分からなかったので「???」という感じだった。

 

私が絶えず受け続けていたのは虐待に気づいたのは完全に中年期だった。いや、うすうす気づいてた。小学生の頃にはどうやって殺してやろうかとずっと書き綴っていた。一時には殺さない、真綿で首を絞めるように殺してやると日記にあった。

 

父は助けてくれなかった。耳元で母が叫んでも本当に「聴覚として聞こえてない」のだ。あれはすごい。無視することがナチュラルにできてしまっていた。

ただ、わたしが母を殺しかけた後しばらくして、もうこれは死ぬか殺されるか殺すかだ、とわかり、東日本大震災をきっかけに夜逃げした後は標的は父に代わり、電話で「今日は急須を投げられて割れちゃったよ~」などと明るく話していたが、相当の暴力と暴言を受けていたのだろう。

父に対する暴言はまあ、わたしが家にいる間もずっとあった。田舎者、貧乏人、女だ、チビ、ハゲ、この家は私のだ、出ていけ!こういうことは子供の頃からずっと聞かされていた。私の目の前で父を罵っていた。

それが普通だと思っていた。

 

 

さて、今、あのヒトモドキの母という名の女は、認知症の世界に逃げつつある。

うちの家系は私が最後の生き残りになる。最後にどうにかうちの歴史を知る生き証人と会話したかった。もう消えてしまう歴史だ。私の心のなかだけでも記録したかった。

 

そして、精いっぱい歩み寄った。しかし、もう、奴には日本語が通じないと分かった。

昆虫以下だった。なまじっか綺麗な顔をして人間の手足があり日本語っぽいものをしゃべるからたちが悪い。人間ではないと分からなかった。

そして、気分によって優しいときもある。殴るけど、怒鳴り散らすけど、監視するけど、暴言を気分で振るうけど、優しいときもあった。わたしはそれが嬉しかった。

まるでDV夫からはなれない妻のようだ。

 

奴は自分で自分のご機嫌が取れないままとうとう後期高齢者になった。

誰にも愛されない、だれにも慕われない、ただ、欲望と、虚栄心と、おそらく劣等感だけで、社会に出ることも無く、父の庇護下に贅沢な暮らしをし、他人を見下し、ののしり、

おそらくそのまま死ぬのだろう。

 

とうとう私との会話もできないまま認知の世界に逃げ切るんだ、とわかった。

老人ホームからタクシーで連れてきて、車いすで、おそらく最後になるであろう家での宿泊をさせて、じっくり共に過ごした。

食べたいものを聞いておいて、大阪で作り、すべてを食べさせた。エビチリを一番喜んでいた。アルバムを見せた。この家はもう手放すことになるよ、おじいちゃんからの代から少しずつ大きくしてきたんだよね、と語った。

 

どうでもいいようにただ寝ていた。ゴロゴロしていた。わたしが20歳のころから、茶の間でTVを見ながらずーーっとそうしていたように。何にも興味を示さなかった。人間らしい情緒の欠片も見えなかった。

最大原因歩み寄ったつもりだが、すべては無駄だった。

 

 

老人ホームでは優しくて上品な奥さんと呼ばれていた。

明らかに裕福な家財で、ヘルパーさんたちの集う場になっていた。

私もこまめにお菓子や金銭を送った。花の世話は出来ないだろうから、ドライフラワーでスワッグを作って送った。

 

認知が進むにつれ、施設の方に対する暴言と暴力が始まった。

「●●って言ってんだろ!!」「うるせーうるせーうるせーうるせー(エンドレス)」

突然始まった暴力と暴言に施設の方は驚いた。

 

あ、いつもに戻ったんだ。と思った。わたしにしていたことだ。

 

でも、彼女の耳には何かが聴こえていて、それに対してずっとうるせーと言い続けているんだ。

おそらく母の母も毒親だった。彼女は本当にびっくりするくらい何もできないひとだった。ただただ、綺麗な顔をしていた。ちょっと日本人っぽくない、ヨーロッパ系の顔立ちとよく言われていた。肌なんて今でも私より白くお餅のようにすべすべで、ピンクかかった透明感がある。

だけど、何もできないひとだった。好きなものも無いように見えた。一切の努力も向上心も無かった。ただただ、ヒステリックにマウンティングして生きていた。

でも本当に幸せだったのか?

確かに一度もお金に不自由しなかったろう。一般で言う苦労はしてない。お嬢様のまま、婿養子をもらい、みんなに持ち上げられてきた。が、おそらく内心は劣等感でいっぱいだったんだと、私は最近理解した。

 

毒親に育てられた特有の自己肯定感の無さ。自信の無さ。

彼女は、自信の無さや自分で何一つ決められないことをすべて他人にしわ寄せして、さらに自信を失っていったんだろう。

 

それを自覚出来なかった。知性が無かった。客観視出来なかった。

そこが私との違いであり、わたしも状況によってはああなる可能性があったと思う。

でも奴の生きた昭和のモデル夫婦像はもう無い。

奴が生きてこられたのは高度成長期や、バブル時代、まだ専業主婦というものが普通だった昭和時代だからだ。

それが普通の時代で、彼女は精神的な自立をする機会を得られないまま、年を取り、80代になった。

 

きっと耳には「うるせー」ことが聴こえ続けているんだろう。

可哀そうだと思う。劣等感でいっぱいで、自信が無くて、自己決定したこともなく、楽ではあるがそれは充足感も無く、達成感も無い人生だったのがわかる。

やつは自分で地獄にいる。今も。幻聴と、劣等感と、自己肯定感の無さの地獄だ。

ああああ、ああなりたくない!!!

無知の無知だ。なぜ自分が満たされないのか、他人は自分を満たしてくれる道具ではないということが分からないまま自分の地獄の中で死んでいくんだろう。

認知が出たとき、ついにわたしを愛することも理解することも無く認知の世界に逃げられる、と思った。違う。まあ、私との関係は逃げきりともいえるんだけど、あいつは自分から逃げられないまま終わるんだ。

 

わたしは奴に対して憎しみと恨みしか無かった。

何をされてきたか、大事なものを破壊され、それを私のせいにされ、物音で私を威嚇し、暴言で傷つけ続け、それが365日40年。

常にご機嫌を取らせられる子供であった。

大嫌いだ。他人だったら絶対に近づかない。関わりたくない。でも親だ。

わたしは愛している。母を愛している。最後まで面倒は見る。

 

そして、わたしは、今、自分がどういう状況なのか段々見えてきている最中で、

とにかく自己決定するのが重要だと分かった。やって失敗してもいいから、自分で決めて動いて、全責任を取る。

私の人生だから、他人の価値観は関係ない。わたしの主観でいい。

どんなに変なお菓子でも私が美味しいと思うなら美味しい。それはおかしいよ~とか、評価が低いよと言われても、私が美味しいと感じるものは美味しい。

他人にこんな菓子まずいじゃんと言われたら、わたしは美味しいと思わなくなりますか?違うでしょという話だ。

 

今、コロナでガラス越しの面会になった。大阪から松戸まではしょっちゅうはいけないけど、この間は3日連続で通った。

 

もし、傍に行けることがあれば、コロナが収まって、接触できることがあれば

わたしは、彼女が一番欲しい言葉を言ってあげたい。

 

「お母さん、辛かったね、苦しかったね、無能でも、何も出来なくても、あなたは生まれて来ただけで意味があるんだよ、価値があるんだよ」

もう充分自己の地獄に居る可哀そうなもうすぐ死ぬ老人に、わたしは、そう言って抱きしめてあげたいと思うようになった。

 

憎い。嫌い。

でも、彼女はその一言がほしくて生きて来たのではないか。だから、わたしが言ってあげる。だれにも言われなかった一番欲しい言葉を、言ってあげたい。

 

価値のないと感じる自分を埋めるために私に勉強を強いた。他人に自慢できる地位に行くことを強いた。ちっとも出来なかったから、わたしはそういうふりをしてごまかして彼女に褒められようとした。そういう条件付きの愛情しか得られなかったから。それでも欲しかった。子供というのは、子供の年齢を過ぎてもそういうものなのかもしれない。私を、自分の穴を埋める道具としてしか扱わなかった、それは愛ではなく、執着や依存だった。奴は私を愛していない。奴の感情には愛情という概念が無い。今はそれが分かる

 

 

しかし、わたしは、自分で作った檻みたいな地獄に居る認知症の老人の母親に、それを言って抱きしめてあげられる日が来て欲しいと願う。コロナの収束がなければ、実現しないかもしれないけれど。

 

哀れみ?やさしさ?

 

どれともちょっと違う。慈悲というのが一番しっくりくる。なんかエラそうというか上から目線ぽいけど、

単語としてわたしが今あの地獄女に感じるのは「慈悲」の心だ。

 

線を引いて、もう、奴の支配下から抜けたいし、産んでくれた恩なんてのはわたしがそばにいてあげただけでおつりがくるくらい返した。マジでそう思う。

だから見棄てることも出来る。経済的なものを送らず、もっとひどいホームに叩き込んで、医療も受けさせず、『片づける』こともできる。

 

わたしはそれをしない。許しては居ない。赦す必要は無い。それだけのことを奴は渡しにしてきた。でも慈悲はある。愛もある。

 

慈悲は、私自身にも還ってくる。そういう種類の暖かいものだ。

哀れみややさしさよりも、もっと広くて深くて暖かい概念だ。

 

わたしは今はそれを彼女に感じている。