食卓の生と死

そら豆を茹でた。

 

種子を、茹でて食べるために無理やり取り出す。

さやは、ひねるとバキッと音を立てて裂ける。

内部はふわふわとやさしく、種子を包み込んでいる。

女性の子宮を連想させた。

いや、そういう生臭いものではない、もっと昇華させた象徴の姿に見えた。

子供をいつくしむ愛そのものの姿だ。

 

生物は進化の過程でそうやって変容してきた。

心と便利が姿を変化させる。愛情と、繁殖の本能。

変化した姿がこのいつくしむ子宮だとおもうと、それをひねり出して

茹でて食べるということが残酷に思える。

 

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食卓は死体だらけだ。

あるいはまだ細胞は生きているが、根を断たれ確実に死を迎えるものたちだ。

動物の身体、魚の身体、野菜の身体。

 

「新鮮な食べ物!」というけど、つまり「新鮮な死体」だよね。

 

わたしたちは、他者の命をいただいて生きている。

誰も生きている者は、いただかれたくなんて無い。

生きとし生けるものは、すべて、最後の瞬間まで生きようとする。

それがたとえ自殺者であろうと。

 

わたしがもし餌になる立場で「人間さんの命をいただいて生きている」と手を合わせていただきますと言われたら

いただかれたくない!

 


なに自己正当化して綺麗な言葉ヅラにまとめてるんだ、

と怒りを感じる。

 

わたしたちは命を奪って生きている。

 

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