生きていることは完成された幸福 死もまたしかり

五体満足で(場合によっては五体満足でなくても)生きていることだけで、生まれて来たことだけで、幸福は完成されている。

 

勿論目が見えて、香りが分かり、足で歩けて、風を感じ、光の織り成す風景を五感で享受する。話せる、歌える、記述できる。読書出来る。映像を味わえる。味覚を楽しめる。

 

それだけで、生まれて来たことだけで、幸福は完成されている。

 

では、死は?

死は、この苦しみからの解放だ。

死は福音だ。

 

生きることは素晴らしい。が、同時に苦しくて辛い。

だから、それらからの解放である死は、解放だ。

虐待親への慈悲 奴は自分の地獄の中にいる

自分の家が当たり前と思っていた。他の家庭と比べる機会は意外とないものだし、そこで育つとそれが当たり前になり洗脳状態になる。

 

ただ、数人気が付いたらしい親戚が居て、子供のころ「一刻も早く久(母)とは離れろ、家を出ろ!」と別室に呼ばれて言われたことがある。

他にも学校の先生に「お前がどうしてそういう風なのか、すぐにわかった。あの母親のせいだ」と言われたこともあった。でも意味が分からなかったので「???」という感じだった。

 

私が絶えず受け続けていたのは虐待に気づいたのは完全に中年期だった。いや、うすうす気づいてた。小学生の頃にはどうやって殺してやろうかとずっと書き綴っていた。一時には殺さない、真綿で首を絞めるように殺してやると日記にあった。

 

父は助けてくれなかった。耳元で母が叫んでも本当に「聴覚として聞こえてない」のだ。あれはすごい。無視することがナチュラルにできてしまっていた。

ただ、わたしが母を殺しかけた後しばらくして、もうこれは死ぬか殺されるか殺すかだ、とわかり、東日本大震災をきっかけに夜逃げした後は標的は父に代わり、電話で「今日は急須を投げられて割れちゃったよ~」などと明るく話していたが、相当の暴力と暴言を受けていたのだろう。

父に対する暴言はまあ、わたしが家にいる間もずっとあった。田舎者、貧乏人、女だ、チビ、ハゲ、この家は私のだ、出ていけ!こういうことは子供の頃からずっと聞かされていた。私の目の前で父を罵っていた。

それが普通だと思っていた。

 

 

さて、今、あのヒトモドキの母という名の女は、認知症の世界に逃げつつある。

うちの家系は私が最後の生き残りになる。最後にどうにかうちの歴史を知る生き証人と会話したかった。もう消えてしまう歴史だ。私の心のなかだけでも記録したかった。

 

そして、精いっぱい歩み寄った。しかし、もう、奴には日本語が通じないと分かった。

昆虫以下だった。なまじっか綺麗な顔をして人間の手足があり日本語っぽいものをしゃべるからたちが悪い。人間ではないと分からなかった。

そして、気分によって優しいときもある。殴るけど、怒鳴り散らすけど、監視するけど、暴言を気分で振るうけど、優しいときもあった。わたしはそれが嬉しかった。

まるでDV夫からはなれない妻のようだ。

 

奴は自分で自分のご機嫌が取れないままとうとう後期高齢者になった。

誰にも愛されない、だれにも慕われない、ただ、欲望と、虚栄心と、おそらく劣等感だけで、社会に出ることも無く、父の庇護下に贅沢な暮らしをし、他人を見下し、ののしり、

おそらくそのまま死ぬのだろう。

 

とうとう私との会話もできないまま認知の世界に逃げ切るんだ、とわかった。

老人ホームからタクシーで連れてきて、車いすで、おそらく最後になるであろう家での宿泊をさせて、じっくり共に過ごした。

食べたいものを聞いておいて、大阪で作り、すべてを食べさせた。エビチリを一番喜んでいた。アルバムを見せた。この家はもう手放すことになるよ、おじいちゃんからの代から少しずつ大きくしてきたんだよね、と語った。

 

どうでもいいようにただ寝ていた。ゴロゴロしていた。わたしが20歳のころから、茶の間でTVを見ながらずーーっとそうしていたように。何にも興味を示さなかった。人間らしい情緒の欠片も見えなかった。

最大原因歩み寄ったつもりだが、すべては無駄だった。

 

 

老人ホームでは優しくて上品な奥さんと呼ばれていた。

明らかに裕福な家財で、ヘルパーさんたちの集う場になっていた。

私もこまめにお菓子や金銭を送った。花の世話は出来ないだろうから、ドライフラワーでスワッグを作って送った。

 

認知が進むにつれ、施設の方に対する暴言と暴力が始まった。

「●●って言ってんだろ!!」「うるせーうるせーうるせーうるせー(エンドレス)」

突然始まった暴力と暴言に施設の方は驚いた。

 

あ、いつもに戻ったんだ。と思った。わたしにしていたことだ。

 

でも、彼女の耳には何かが聴こえていて、それに対してずっとうるせーと言い続けているんだ。

おそらく母の母も毒親だった。彼女は本当にびっくりするくらい何もできないひとだった。ただただ、綺麗な顔をしていた。ちょっと日本人っぽくない、ヨーロッパ系の顔立ちとよく言われていた。肌なんて今でも私より白くお餅のようにすべすべで、ピンクかかった透明感がある。

だけど、何もできないひとだった。好きなものも無いように見えた。一切の努力も向上心も無かった。ただただ、ヒステリックにマウンティングして生きていた。

でも本当に幸せだったのか?

確かに一度もお金に不自由しなかったろう。一般で言う苦労はしてない。お嬢様のまま、婿養子をもらい、みんなに持ち上げられてきた。が、おそらく内心は劣等感でいっぱいだったんだと、私は最近理解した。

 

毒親に育てられた特有の自己肯定感の無さ。自信の無さ。

彼女は、自信の無さや自分で何一つ決められないことをすべて他人にしわ寄せして、さらに自信を失っていったんだろう。

 

それを自覚出来なかった。知性が無かった。客観視出来なかった。

そこが私との違いであり、わたしも状況によってはああなる可能性があったと思う。

でも奴の生きた昭和のモデル夫婦像はもう無い。

奴が生きてこられたのは高度成長期や、バブル時代、まだ専業主婦というものが普通だった昭和時代だからだ。

それが普通の時代で、彼女は精神的な自立をする機会を得られないまま、年を取り、80代になった。

 

きっと耳には「うるせー」ことが聴こえ続けているんだろう。

可哀そうだと思う。劣等感でいっぱいで、自信が無くて、自己決定したこともなく、楽ではあるがそれは充足感も無く、達成感も無い人生だったのがわかる。

やつは自分で地獄にいる。今も。幻聴と、劣等感と、自己肯定感の無さの地獄だ。

ああああ、ああなりたくない!!!

無知の無知だ。なぜ自分が満たされないのか、他人は自分を満たしてくれる道具ではないということが分からないまま自分の地獄の中で死んでいくんだろう。

認知が出たとき、ついにわたしを愛することも理解することも無く認知の世界に逃げられる、と思った。違う。まあ、私との関係は逃げきりともいえるんだけど、あいつは自分から逃げられないまま終わるんだ。

 

わたしは奴に対して憎しみと恨みしか無かった。

何をされてきたか、大事なものを破壊され、それを私のせいにされ、物音で私を威嚇し、暴言で傷つけ続け、それが365日40年。

常にご機嫌を取らせられる子供であった。

大嫌いだ。他人だったら絶対に近づかない。関わりたくない。でも親だ。

わたしは愛している。母を愛している。最後まで面倒は見る。

 

そして、わたしは、今、自分がどういう状況なのか段々見えてきている最中で、

とにかく自己決定するのが重要だと分かった。やって失敗してもいいから、自分で決めて動いて、全責任を取る。

私の人生だから、他人の価値観は関係ない。わたしの主観でいい。

どんなに変なお菓子でも私が美味しいと思うなら美味しい。それはおかしいよ~とか、評価が低いよと言われても、私が美味しいと感じるものは美味しい。

他人にこんな菓子まずいじゃんと言われたら、わたしは美味しいと思わなくなりますか?違うでしょという話だ。

 

今、コロナでガラス越しの面会になった。大阪から松戸まではしょっちゅうはいけないけど、この間は3日連続で通った。

 

もし、傍に行けることがあれば、コロナが収まって、接触できることがあれば

わたしは、彼女が一番欲しい言葉を言ってあげたい。

 

「お母さん、辛かったね、苦しかったね、無能でも、何も出来なくても、あなたは生まれて来ただけで意味があるんだよ、価値があるんだよ」

もう充分自己の地獄に居る可哀そうなもうすぐ死ぬ老人に、わたしは、そう言って抱きしめてあげたいと思うようになった。

 

憎い。嫌い。

でも、彼女はその一言がほしくて生きて来たのではないか。だから、わたしが言ってあげる。だれにも言われなかった一番欲しい言葉を、言ってあげたい。

 

価値のないと感じる自分を埋めるために私に勉強を強いた。他人に自慢できる地位に行くことを強いた。ちっとも出来なかったから、わたしはそういうふりをしてごまかして彼女に褒められようとした。そういう条件付きの愛情しか得られなかったから。それでも欲しかった。子供というのは、子供の年齢を過ぎてもそういうものなのかもしれない。私を、自分の穴を埋める道具としてしか扱わなかった、それは愛ではなく、執着や依存だった。奴は私を愛していない。奴の感情には愛情という概念が無い。今はそれが分かる

 

 

しかし、わたしは、自分で作った檻みたいな地獄に居る認知症の老人の母親に、それを言って抱きしめてあげられる日が来て欲しいと願う。コロナの収束がなければ、実現しないかもしれないけれど。

 

哀れみ?やさしさ?

 

どれともちょっと違う。慈悲というのが一番しっくりくる。なんかエラそうというか上から目線ぽいけど、

単語としてわたしが今あの地獄女に感じるのは「慈悲」の心だ。

 

線を引いて、もう、奴の支配下から抜けたいし、産んでくれた恩なんてのはわたしがそばにいてあげただけでおつりがくるくらい返した。マジでそう思う。

だから見棄てることも出来る。経済的なものを送らず、もっとひどいホームに叩き込んで、医療も受けさせず、『片づける』こともできる。

 

わたしはそれをしない。許しては居ない。赦す必要は無い。それだけのことを奴は渡しにしてきた。でも慈悲はある。愛もある。

 

慈悲は、私自身にも還ってくる。そういう種類の暖かいものだ。

哀れみややさしさよりも、もっと広くて深くて暖かい概念だ。

 

わたしは今はそれを彼女に感じている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

甲賀 空き家バンク 福井家の印象

また乗り過ごしてしまって、甲賀駅を通り過ぎた。

近いとのことで、一駅先で降りたその駅に不動産屋が来てくれた。

福井家は1600年代からそこに住んでいたという記録があった。

まず仏壇に手を合わさせていただき、拝見した。

さし鴨居が太く黒く美しかった。外はベンガラだった。

しかし補修箇所が多すぎて、とても690万では高いと感じた。

立て付けの近江箪笥があったが、それほど趣は無かった。その他の建具、写真だと

格子が古そうにみえた仕切りの戸が昭和中期以降のものだった。土台が崩れていた。

それゆえ傾きがあった。

風呂周りもリフォームが必要。風呂もキッチンも、湯沸かしはボイラー。

キッチンは壊滅的。

 

日当たりは良いのか悪いのか、雨天のためよくわからなかったが、良さそう?

 

セカンドハウスとして一部を使うならいいかもしれないが、駅からは車で40分くらいか。

違い鷹の羽の家紋が家の漆喰に彫られていた。二階のお蚕部屋は封鎖。土蔵は二階に昭和中期のもの。不思議と古民家は中身は昭和中期のものであふれている。しかし、一つ面白いのは火縄銃があった。象嵌で桜が入っていた。これだけは幕末くらいの空気を感じた。他は農機具、明治期の大量の収穫籠。

 

昭和30年代くらいに見えるお菓子屋さんをしていたときのほぼ剥離した看板もあった。

恐ろしい残置品の山だった。これを見ると、私のあの家のものはまだ2トントラック7台らしいので、ここの大変さに比べたらちょろい!はず!と勇気をもらった(笑)ここは大変だろうなあ…。残置品の処理だけで150万以上いくだろう。

どうでもいい感じのお庭。ただ立派なだけのどうでもいい感じのお庭のいかに多いことか。全く心に来ない。

今の賃貸はいかに心を配り、大切に扱い、良い趣味とセンスで建てられているかを思い知った。

 

くみ取り式の屋外の男女トイレがあり、使用禁止。

とにかく増築に増築を重ねて最盛期は10人以上住んでいたのではないだろうか?と思われる。商家っぽい農家に見えた。

 

 

良い点…屋台骨がしっかりしていそう。白と黒とベンガラが綺麗。雰囲気の良いところはある。収納はいっぱい。自然がいっぱい。良い雰囲気のところはある。土間に残っていた格子は古くて良いものだった。

 

 

悪い点…キッチンと水回りが壊滅で暮らせない。床の傾きや畳の痛みも激しい。

良い部分もあるがリフォームしないと危険な場所も多々ある。さらに使えない場所が多い。(汲み取り式トイレなど)

駅から遠すぎる。

町会費が毎月3000と、地域のナントカ費が30000万というさらに草刈りのボランティアの義務や会議。

 

 

無事誕生日・ ヤフオク手渡し・りるから首輪

今日は誕生日だ。
梅雨入りした状態の誕生日は生まれて初めてだ。


外のほとんど地植えになってしまった大量のクローバーを 根こそぎ全部 片付けた。
ここを通る時クローバーを見るのが楽しみだったのに結構声をかけられた。
それは見るぶんにはいいだろうけど
地面に接しているから梅雨に入ってしまって
傷んだ葉っぱなどが害虫の温床になってしまう可能性があるというかもうすでにナメクジがいたので
誕生日だからむやみな殺生はしたくなかったけれど ピンセットでつまんで 落として 踏み潰した すみません。

ずいぶんすっきりした根っこはどうせ残ってるからまた生えてくるだろうし、
そしたらまた 地植え感覚のワイルドガーデンを楽しめる。

私は鉢植えばかりだけれど本当は鉢植えは好きではないし、
整備された庭よりも 自然なものが好きだ。


午後ヤフオク水草ラムズホーンを買ってくれた人に手渡しする。

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アナカリスはすごい量ですねと びっくりされたけれど私の持っているすべての種類の水草や浮草、 ゾウリムシにミジンコまで添えて それから全ての生き物の餌を添えて渡したら喜んでくれた。
初心者ではなくて経験者のようなので安心した。


人工のおやすみリーフがもう限界を迎えたので新しいのを買ってあげました いそいそとやっぱり人工のものに行く。


なんでやねん

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りるから お誕生日プレゼントが届いた。もちろんお礼は言ったが
お前借金あるんだからこんなもん買ってんじゃねーよとも言った。

昨夜はOさんからも 玄関先にお饅頭が置いてあって ちょっと困ってしまった。 私がOさんの誕生日に焼肉を奢ったからそのお礼のつもりだろうか。

あの人はもうストレスが溜まりすぎて、私にマイナスのことしか言わないので縁を切りたい。
本当に苦痛。 そして正当化しているけれどあの人は結局私のお金が目当てだと思う。

電話帳からも LINE からも全て削除してしまったので 一応受け取ったとのお礼を知らせるためにパソコンのゴミ箱の中を見たら まだ住所が残っていたので仕方ないので一時的に復元。
お礼を述べて、 もう会うことはないでしょうけれどお元気でと結んでおいた。

Aさんも 全部削除したアットコスメで私のお陰でブレイクして今は株式会社になった人だ。

久しぶりの電話があったけれど 相変わらず不愉快なことしか言わないしとんちんかんだったのでこの人とも縁を切る。
全部削除。

もう私にマイナスの気を飛ばすような人や、 心無い言葉で攻撃する人は
どんどん削除して良い人と 縁を大切にしたい。


私をコントロールしようとする人とは、私はもう付き合いません。
それが肉親であっても友達であっても恋人であっても。

めだか一部B型事業部へ転居

昨日CJエフォートさんというB型事業所がベタやメダカの飼育販売を始めるとのことで、喜んでうちのメダカやら水草やらラムズホーンやらミナミヌマエビやら水草やらゾウリムシやらベタのエサやら…まあ、全体的にもらってくれた。喜んでいた。

今はベタが中心で、在宅で育てて持ってきてもらうという仕事もあるらしい。

いいなあ、そこで働きたいなあ(笑)

 

明日はヤフオクアナカリスとマツモとラムズを大量に買ってくれた人に手渡しだ。

駅前のロータリーだが、水槽が沢山あるとのことなので、水草も餌もプランクトンも、私の持っているものは全種類おまけしてプレゼントすることにした。

アナカリスバケツ3つ、マツモバケツ1つ、ラムズ200匹以上。しめて1000円也。

さらにおまけで水草の絨毯を作れる3種類の種(前景草、中景草、後景草)、ゾウリムシとミジンコ、水草はパールグラスとアマゾンフロッグピット、青ウキクサ、ウィローモス水草の肥料、イニシャルスティック、ミジンコのご飯ムックリワーク、ラムズのエサとしてプレコのエサ。それぞれ一応使い方のメモを入れた。ちょっとやりすぎたかもしれないけど、こういう豪華なサービスを用意するのは私がワクワクして面白い。

 

相手に支払いを請求するのを一週間近く忘れていて、今日催促されてしまった。相手の住所も明らかになった。大阪の病院の院長だった。面白い。本気でアクアをいきなり立ち上げるのだろうか。2Tトラックで来ると言う。面白いねえ。でもでかいから邪魔になるだろうし、あまり説明してる時間はないな。駅前で素早く手渡し予定だ。

人生はシンプル・ピンセット給餌・明野はダメだ

ベッラがフォーチュンの人工エサを食べてくれるようになって三日目。

最初はうまく口に入らないようでもがいたりしていたので ピンセットで口元に寄せるのを根気よく繰り返した。

それでも食欲は戻ったようだ。
ただ体の動きが思ったようにならないようで目測を誤って もがいたりしていた。


それが今日はなくなって普通にパクリと食べてくれた。

二粒まで与える。
ここで焦ってはいけない。 消化器に負担を与え 元に戻ってしまうかもしれない。

祈る発見があった 糞なのか 産卵管なのか分からない辺りから
下手な湿気茶色いコロッとしたふんではなくメダカのような細く長い白い 糞のようなものが ぶら下がって伸びていた。

直径は0.1ミリもない。長さは15 mm 程。

気になるので経過観察を続けよう


ベッラは チャームから届いた時から 右に傾いていた ベリースライダーとは違うようで底面を這い回ることはなかったけれど 内袋に先天的な 異常があった可能性が高いと思っている。


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明野さんと電話した 久しぶりだった

一番最初 何かのトラブルに巻き込まれているということで私に 見ず知らずの相手の女性を 説得してほしいという、意味のわからない電話がかかってきたことがきっかけだったけれど
それまですっかり私のことを忘れていたというくらいだから もうどうでもいいんだろう。
精神を病んでいるようで頓服を4飲んでいるから可哀想だと思うけれど
この人には私への愛情がなくて、 いつも上からマウンティングを取ってきて、 間違えたことでも 謝らないし、振り回されてしまうからもういい。
いらない。


今回も知り合いだかが30代で乳がんで死んだ話をしてくるので、
『そういうのは聞きたくないんだけど』と答えた。
すると『俺は いつ死んでもいいと思ってるんで』と 見当違いの事を言ってくる。
お前の人生観はどうでもいい。今の話になんの関係があるんだよ。


『あなたがいつ死んでもいいのは、あなたの問題であって 、 私は そういうことを聞きなくないと言っているんだけれど 』と答えた。


何事もなかったかのようにまるで違う話題を始めたので、 あーこの人は進歩していない相変わらずだと思った。



この人は私のレビューでブレイクして 株式会社で潰れることもないという順風満帆の状態のようなので
まあ一人で自分の道を行けばいいと思う。




皆もう終わったことで、
みんな一人それぞれ生きていって
みんな一人で死んでいく。

それまでにいかに自分で幸福感の高い状況を作るかと言う シンプルな話だと思った。
人生はとてもシンプルだと思う


私もあと何年健康で一人で暮らせるのかわからないのに田舎に居を移すというのは
なかなかチャレンジャーだろうが、 とにかく 動かないよりは動いた方がいいと今は感じている。

どちらにせよ賃貸料金やもしかしたら倉庫費用として 家賃はかかってくる。
地方の安い空家の一軒家を選ぶ。
失敗したらまたやり直せばいい。
とにかく動こう。

コロナ陰性・ベッラがエサを食べてくれた

大阪に帰ってすぐに受けたコロナの検査結果は陰性だった。

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昨日からベッラが餌を少しだけ食べてくれるようになった。
多分35~40日の間ぐらいの間絶食していたた。
その間は塩浴、 ゾウリムシと 溶け出してエラから吸収されると言う留守番フード。

アグテンパウダー一回、 エルバージュエース一回。

一時はもうダメかと思ったけれど 東京から帰ってきた時も衰弱死してるんじゃないかと思ったけれど

少し食べてくれたから だからといって油断して 一度に多く与えると内臓に負担をかけるから一日1~2粒だけに 止めることにした。 ガツガツ食べる感じではないから多分ちょうどいい 少ないぐらいでないと内臓に負担をかけてしまうし、 一粒でも食べてくれればベタは食べ物が原因ですぐに餓死、衰弱死することはない。

ベタはもともと産卵の時期は2週間ぐらい絶食することがあると言う。
ラビリンス器官で 肺呼吸もできるから万が一飛び出しても少しの時間なら 生きていられる。ベ太郎も 実際うちに来たばかりの頃40分ほど飛び出していた。 それでもすっかり元気になる


ベタは元々生命力の強い魚なのかそれともデリケートで弱い魚なのかよく分からない部分がある。

ベタは比較的短命な魚で 大体2年と言われる。観賞的に大変美しくて、種に多様性があって、性質は愛嬌があって、人間味があって 、人懐っこくて 、 好奇心が強く 賢いようでちょっと抜けてて、
総合的に大変可愛いので、ベタを愛する人が多いのはとてもよくわかる。

このまま薬品を入れないで 徐々に 回復してくれたら ベストだ。
なぜなら今回 いちかばちかで入れた 2種類の薬品のどちらか効いたかはっきりしないから、
快復の兆しのあるこの段階で体に負担になることを入れたくない。

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四つ葉のクローバーがまた1つ増えていた。 これで現在二つ。

あの株は定期的にこうやって四つ葉のクローバーが出現する。