迷惑教国日本に言いたい「ひとに迷惑をかけても良い」
言葉にするとなんか語弊を生みそうだが、意味は
人に迷惑をかけることが良い、ではなく
「人に迷惑をかけても良い。」
わたしがやむを得ず迷惑をかけることがある、でもあなたも私にやむを得ず迷惑をかけることがある。それで終わりの話じゃね?
ひとに迷惑をかけるのは、生きている以上、お互い仕方のないことだ。
助けられる範囲で人を助ける。助け合う。困ったときはお互い様。
そもそもわたしはそれを「迷惑」とは呼ばない。
困ってる人を助けられる範囲で助けられたら、自分も嬉しい。
やむを得ず、人の手を借りることを、迷惑と呼ぶのはどうなの?それは健康的な社会の考え方でしょうか?ということをわたしは言いたい。
私たちは別の人間で、わたしはわたし、あなたはあなた。
でも困ったときはお互い様、で終わり。すっきり健康的。
もちろん、罪のない子供を無差別大量殺人するとか故意の犯罪は別です。
わざと迷惑行為を繰り返すとかも別。
迷惑をかけちゃった人は、次から同じ繰り返しをしないように気をつければよい。
それでよい。というか人は自分と未来しか変えられないから、それしかできない。
その結果また迷惑かけちゃっても、次はしないように努力する。長期にわたる場合や、繰り返しがあまりに続く場合は、
他の対処策を講じればいい。
私の実体験だと、わたしが二十歳くらいだったか、自転車後輪にスカートの裾が絡まって巻き込まれて下りることも進むことも出来ずで困っていた。通りがかりのお爺さんが難なく横からヒョイヒョイとそれを外してくれた。
私はひたすら謝ってお礼を言った。そのお爺さんは「なんの、困ったときはお互い様ですよ」といった。
「困ったときはお互い様」をリアルではっきり言語で聞いたのは初めてだった。
今でも場所も状況も言葉もはっきり思い出せる、一生忘れられない出来事だ。
以前行きつけの大学病院でお年寄りが転倒して腰を強打した。
みんな駆け寄って助けようとしたら、「すみません、すみません、迷惑かけてすみません」とひたすら謝って手を貸そうとする人を長時間拒否しつづけていた。「ありがとう」で起こしてもらう、そうすればワンアクションで終わることだ。
母親へのインタビューの話で「どんな子に育てたいですか?」「人に迷惑をかけない子に育てたい」という。
日本人は人に迷惑をかけるな、迷惑だ―、そればかり。そのように育てられてきた。
発狂して目くじら立てる。
日本は迷惑警察が跳梁跋扈する。
迷惑教信者だらけだ。
それは誰も、お互い幸せにならない。
そもそも迷惑という言葉がおかしい。
「私もやむを得ず迷惑(?)をかけるかもしれないけど、あなたは私に迷惑(?)をかけることもあるかもしれない、困ったときはお互い様。」という考え方のほうがお互いにとって健康的な社会だと思う。